(1948) 太宰治
一人称で語られる主人公に読み手が強く共感し、
個人的体験と重ね合わせて読める言われているけれど、あまりその印象はなかった。
むしろ主人公の未来が早く知りたくて読み進めた。
個人的体験に結びつけて物語を理解する、というのは頻繁に起こること。
主人公に発達障害があるのでは、と感じたのは最近読んだ記事の影響のせい。
幼児期の虐待経験と捉える点について、
私は、異常なまでの繊細な心を表裏のある下男下女の行動によって
裏切られるということが最低の虐待だと理解したけれど、
性的虐待という捉え方もある様。
内縁の妻の悲劇は純粋さだけで起こったものではない。
主人公の語り口から、信じようとしても信じきれない思いが見え隠れする。
唯一の明るかった登場人物からの裏切り。
罪と罰。
罰は、罪が存在しなくてもやってくる。
精神病院に入れられる瞬間。
柵の中から外を呆然と眺める主人公の姿を想像した。
そして、南米の精神病等の写真を見た記憶が蘇った。
そこで終わりかねないこの話。
彼が裕福な家の生まれだということが、
最後の、不幸でも幸せでもない状態を生み出した。
この主人公、プライドの高さの余り自分を道化に見せたのではないか。
自分は全く他人のことが分からない、と言いつつ、
それは自分を守る殻だったのではないだろうか。
裕福な家に恵まれて生まれたために、その道を外れることを恐れ、
自分を特別だと言い聞かせ、
精神病院に収容されたことでその重圧を逃れて、
不幸でも幸せでもない状態を受け入れることができるようになった。